人生相談のお時間です。
今回のご相談者は「けろけろ」さんです。
【お名前】
けろけろさん
【都道府県】
兵庫県
【性別】
男性
【年齢】
25歳
【ジャンル】
その他
【メッセージ本文】
一昨年大学を卒業し、現在アルバイトをしながら就職活動をしている身なのですが、論理学にハマり、スカイプで論理学を専攻する大学院生から授業を受け、毎日教科書の問題を解いてます。人は何かにハイになり、我を忘れる時間が必要だと思うのですが、僕にとってそれは論理学の問題を解くことだったりします。それから買い物が好きで、アルバイトの身なのでそんなに大きな買い物ができないのですが、PC周辺機器や本やお酒などを買いあさっています。買い物の時もけっこうハイになっており、目を爛々と輝かせて店内をうろついております。
でも思うのですが、こうやってハイになり、意味を考えずにひらすらその作業(問題を解いたり、最適な解答を求めて店内をうろついたり)に打ち込む姿は、快感刺激を求めてひたすらスイッチを押すラットとそう変わらないものであり、人間としてそれでいいのかと疑問に思ってしまいます。では、数式を解く作業や買い物に意味を見出せばいいではないかとちょっと思いましたが、単にうまく法則を当てはめて演繹していく作業と欲望と実利に駆られて店内を巡回する作業に意味など見いだせません。まあ、論理学は大きく見て、これまでの枠組みではこういう限界があるとか、今まで無自覚に使っていた論理学にはこういう前提があるとか、考えられるのですが、まだそのレベルに至っておらず、、、、というかもう具体例はどうでもよく、要は快感が心地よいからといって、そのことばかりにかまけて人生を終えることに意味があるのか、という疑問です。
そもそも意味とは何かを知るために言語哲学や論理学に向かったのに、意味を無視し文や数式の形だけに着目した構文論的な世界にどんどん吸い込まれていってしまう。意味論に行けばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、言葉の意味を知る意味は何なのか、結局のところどうでもいいものではないか、というふうに考えていくと、また振り出しに戻り、快楽が大事だというふうになります。でもまた快楽に意味があるか、となり、永遠の循環です。ようは一つの完結した世界でさまようことを快楽とよび、その世界を疑問視し、解体していく作業を思考や考察と呼ぶのかもしれません。
質問が拡散してしまったのでまとめると、生きる指針として快楽を得られる趣味に打ち込む、と決めたのに、その指針がぐらついて困っている、という内容の相談です。就活に関しては割とまじめに取り組んでいるので、なんとかなると楽観視してます。
【中村うさぎの回答】
けろけろさん、私は論理学も言語哲学も意味論も知りません。
こういう哲学的な問いは、私なんかじゃなくて哲学の大先生とかに訊いたほうが、それこそ「意味」があるんじゃないかと思いますが、何故私に相談したのでしょう?
そこがまったく理解できません。
意味を求めるあなたが、もっとも無意味な相手に解答を求めるなんて(笑)。
さて、わからないなりにあなたの文章を読みました。
まず、あなたはご自分を、快楽を求めてひたすらレバーを押し続けるラットのようだとおっしゃってますが、そのとおり、人間とラットはたいして変わりゃしないと私は思います。
快感原則に逆らえないという部分では人間もラットも大差なく、ただ、何に快楽を覚えるか、が違うだけです。
ラットの快楽は餌だったりするのかもしれませんが(ラットの気持ちがわからないので、あくまで推測ですが)、人間の場合はもっと抽象的なことだったりする。
人間の特質は抽象思考そのものに快楽を見出すことであり、まぁそのおかげでガリレオとかニュートンとかそういう天才たちが宇宙の法則や物理の法則を考えついてくれたのですから、ありがたいことだと思います。
あの人たちだって、絶対、「宇宙はどうなってるのか」「この世界はどんな法則で成り立ってるのか」と考えることが楽しくて楽しくて仕方なかったに決まってます。
楽しくなかったら、人間はあんなに打ち込めませんよ。