人生相談のお時間です。
今回のご相談者は「りんご」さんです。
【お名前】
りんごさん
【都道府県】
【性別】
女性
【年齢】
【ジャンル】
【メッセージ本文】
夫と不仲というわけでもなく、子どももかわいいし、特にこれといった不満のない充実した毎日を送っていると思います。
なのに何故か時々、「これでよかったのか」という気分に襲われ、気持ちが激しく沈み込みます。
自分の選んだ人生だし、確かに私は不幸ではない。
だけど「幸福だ」という実感もない。
「不幸でない=幸福」ではないのでしょうね。
傍から見ると「贅沢な悩み」だと思われるのはわかっているので、あまりこのような愚痴を友人にも言えません。
世の中にはあなたより不幸な人は大勢いるのよ、今の幸せに感謝しなさい、と言われるのが関の山です。
そんなの私だってわかってます。
でも、うさぎさんが以前テレビでおっしゃってたように、自分の悩みが他と比べて大きいとか小さいとかって比較には意味ないと思うんです。
それに、「自分よりもっと不幸な人を見つけて安心する」みたいな方法があまりいいとも思えません。
幸福とは何でしょうか?
自分の幸福は自分で決めるもの、とは思いますが、自分で選んだはずの幸福が幸福と感じられない人間は、どうやったら幸福を実感できるのでしょう?
【中村うさぎの回答】
りんごさん、あなたの悩みは決して贅沢ではないし、かなり哲学的な問いと言ってもいいと思います。
あなたのような問いに「もっと不幸な人は大勢いるんだから贅沢だよー」などと答える人は、この「幸福とは何か」という問いを考えたことすらない底の浅い脳天気ちゃんなので、この際、聞く耳を持つ必要はありません。
問題の次元が違うのです。
では「幸福」とは何だろう?
じつのところ、私にもこの答はわからないので、ご一緒に考えていきましょう。
客観的な「幸福」の条件なら、我々はいくらでも挙げることができる。
安定した経済的基盤、苦痛や不自由のない健康な肉体、争いや葛藤のない平和な環境、承認願望を満たしてくれる家族や友人の存在、などなど。
しかし、あなたが問題にしているのは「主観的な幸福感」ですよね。
客観的な幸福の条件が満たされていてもなお、主観的な幸福感が希薄である、という問題。
これは、非常に難しい。
「主観的な幸福感」なんて、それこそ人それぞれだし、これといった処方箋など存在しないからです。
だが、この答のない「主観的な幸福感」こそが非常に大切なのだと私は考えます。
だって、この世に存在する宗教や哲学のほとんどは、この「主観的な幸福感」をいかに得るかという問いから生まれたものでしょう?
それほどまでに人類は、あの手この手で「主観的な幸福感」を追い求めてきたのです。
客観的な幸福の条件を並べ立てて「すべて満たされてるんだから満足しなさい」などと言うのは、物事を観念的に考えられない実利的な人々(←ある意味、幸福な人々とも言えますが)の常套句で、そんなんで幸福になれるんなら苦労しねーよ、です。